「Rさんのお母さんに
謝らなければならないことがあって」
と、突然
娘の高校の先生から電話があり
話を聴いたところ
「カン違いで
せっかくの娘さんの努力を
無駄にしてしまいました」という
謝罪の電話でした。
(詳しい内容は割愛します)
確かに原因は先生の
単純な文章の読み違い。
私に「怒り」の感情が湧かなかった
と言えば正直な話
「噓」になります。
でも
電話口で
「怒り」の感情を
先生に対して使うことなく
済みました。
アドラー心理学では
怒りの「前」に必ず
怒りとは別の
「一次感情」があると考えます。
私の一次感情は
「大事な連絡を読み違えられたことへの落胆」
「せっかくの娘の成長のチャンスを奪われた悔しさ」
「結果として迷惑をかけた別の先生に真実が伝わっていないのではないかという不安」
話しながら気づいたので
一次感情にまつわる思いを
率直に伝えました。
「こちらとしては、こういう思いがあってしたことだったので、それがちゃんと伝わらなかったのは残念」
「なかなか体験できないとても素晴らしい機会をいただいたと思っていたので」
「その先生に今回の件の経緯の真実が伝わっているか心配なので確認してほしい」
でも、話しながら、もう一点、大事なことに気づきました。
これは「娘と先生の問題」であること。
「せっかく練習したのに」
「あんなにがんばったのに」
という気持ちが出てきたとき
(練習したのも、がんばったのも
私ではない。
私がここであれこれ言うのは
娘と先生の課題に
ズケズケと踏み込むこととでは?)と
思ったのです。
「課題の分離」ですね。
いくら私が先生を
「ひどい!許せん!」
と言ったところで
この話、私には実害がありません。
さらに
娘がこのことについて
どう思っているのか
この時点で
私にはわかりません。
娘のメガネでは
もしかしたら
「大役から免れてラッキー」と
思っているかもしれません。
そこで最後は
「謝罪は私ではなく、どうか娘の方に」
と伝えて、電話を切りました。
アドラー心理学を学ぶ前の私であっても
今回のようなケースで
「怒り」を他者にぶつけることは
あまりありませんでした。
要は、「怒り」の感情を
見て見ぬふりをしていたのです。
以前の私は
「自分の思いや考えを伝える」ことが
とても苦手でした。
どんな言葉をもって
相手に伝えたらよいかがわからず
その「不快」な感覚が長引くのも避けたくて
その場を「わかりました」と
収めることしか
できなかっただけでした。
そのくせ、仲の良い友だちには
「こんなことがあったのよ!」と
怒りを感じたエピソードを聞いてもらう
という行動をしがち。
「怒り」とは
そうやって発散するものだと
思っていたのかもしれません。
こんな私でも
怒りを感じつつも
その気持ちに蓋することなく
自分の一次感情を探り
見えてきた気持ちを素直に相手に伝え
問題を整理することが
できるようになりました。
今回の出来事は
アドラー心理学のベストセラー
「嫌われる勇気」に出てきた
三角柱のお話
「悪いあの人」でもなく
「かわいそうな私」でもなく
「で、あなたはどうしたい?」
という問いに対する
1つの私の答えだったと思っています。
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